鬼 童

 

坂本のこ

写真

月のひかりが、草原にふりそそぐ夜であった。風はおだやかに草をゆらし、かすかに花のかおりがした。野ウサギが走りさると、ミミズクがホウと啼いた。
月のひかりの下に、ほおづえをついてすわる童の姿があった。ひとのこどもではない。額に角のあとのある、鬼の子であった。しかも、石の。額の角は、根元からぷっつりと折れている。
けれど、ミミズクにはわかっていた。石ではあっても、その鬼の子には、魂がやどっていると。だから月の美しい夜には、必ずこの場所へ来た。
鬼の子のところへ来るのは、ミミズクだけではなかった。草原に住む小さなけものたちも、鳥たちも、鬼の子のところへやってきた。
川の流れのこと、雲のこと、山桜が咲いた話や柿の実がなったこと。里で見てきたことや、峠の話など、けものや鳥たちは、じっとすわっているだけの鬼の子に話してきかせた。
しかしまだ、石像の鬼の子の魂は、ぼんやりとした眠りの中にいた。

幾十年、幾百年か前のこと。時は戦乱の世で、長い長い戦の後だった。
この草原でも、激しい戦いがくり返された。
たくさんの屍が、折り重なっていた。里から来た者たちは、その屍の山から、はぎ取れる物ははぎ取って、屍は大きな穴に埋めた。
雪が降り、雪が融け、草や木々が芽吹きはじめたころ、ひとりの年老いた男が、この草原にやってきた。
杖をつき、編み笠を被り、墨染めの衣を身につけていた。手には数珠をかけ、なにやら念仏を唱えながら、草原を歩き回った。そして、ふいと立ち止まり、
「うおっ」
という、声にならない声を発すると、がくりと膝をついた。
男は、足元に小さな青い石を見つけたのだった。手にとった石は丸く研かれ、小さな穴には絹糸を編んだ紐が通されていた。紐は引きちぎられ、裂け目は焼け焦げていた。
男は三日三晩、念仏を唱えながらその場を動こうとはしなかった。
四日目の朝、男は草原から姿を消した。しばらくすると、着古された藍染の筒袖を来た男は、小川に近いところに、林から切り出した丸太で小屋を建て始めた。小屋ができると、わずかばかりの土地を耕して畑を作った。
その間も、青い石を見つけた場所で、朝に夕に念仏を唱えていた。青い石は、長い紐が通され男の首にかけられていた。
それから、どこからか運んできた一抱えの石を置いて、三日三晩念仏を唱え、四日目の夜明けに川で水浴びをしてから、石を彫り始めた。それが、鬼の子の石像だった。

男は、寺町に住む仏具師だった。僧侶ではなくても、仏につかえる身と考え、戦乱の世でも穏やかに暮らしていたかった。
ある日、城に呼ばれた男は、領主から仏具ではなく、鎧や甲冑を作るようにと命令された。ほかの職人たちが命令を受け入れても、男だけは断わった。
「わたしの手は、仏さまのもの。戦の道具を作る手では、ございません」
怒った領主は、男の妻と息子を牢につないだ。しかし、男の信念は揺らがなかった。病弱だった妻は牢の中で亡くなり、十五になった息子は歩兵に志願した。
「おやじさまのように、仏にすがったところで、戦は終わらない。人々を救うためには、戦に勝つしかないんだ」
そう言って、息子は武器を取り、戦場へ行った。息子は、母と自分を見捨てた父を、許せなかった。男もまた、戦に志願した息子を許せなかった。
それまで、憎しみも怨みも知らなかった男は、妻を奪い、息子を戦に駆り立てた領主を憎んだ。なにより、おのれの信念のために、家族を守らなかった自分自身の愚かさを怨んだ。
やがて戦はおさまったが、息子は戻らなかった。男は何もかもを捨てて、旅に出た。息子を探すつもりだったのか、戦に倒れた人の霊をなぐさめるためだったのか。男は、戦場になった場所をめぐった。
この草原で、息子が肌身離さず持っていた青い石を見つけたとき、男は初めて泣いた。

月がひとめぐりしたころ、男は石を彫る手を静かに止めた。深いため息とともに、両手で石像を包んだ。それは、額に角があるものの、息子の幼い日の姿だった。
「鬼童よ」
と、男は話しかけた。
「お前だけが鬼ではない。このわしも、鬼じゃ」
男は数珠を手にすると、鬼の子と向き合うように座った。それから三日三晩、念仏を唱えながら、じっとして動かなかった。
その後、男は根雪が降るまでは小屋で暮らし、冬の間は里に降りて寺で暮らした。何年かそんな暮らしが続いたが、いよいよ年をとって働けなくなった男は、鬼の子の前に座って、念仏を唱え始めた。
「許せよ、鬼童よ。お前を、鬼の姿のままにして残していくわけにはいかない。もう終わりにしよう。憎しみも怨みも、この澄みきった月のひかりの下では、虚ろだ」
男は、懐から小刀を取り出した。身体に残っていたすべての力を使い切って、鬼の子の角を切り落とした。
男は大地についた片手で身体を支え、肩で息をしながら鬼の子を見た。
「一万回、月のひかりを浴びたら、お前にも魂が宿るように願を掛けた。戦の無い世に、生まれかわれよ」
男の身体は、鬼の子の石像の前に崩れ落ちた。手には、切り落とされた角が、握られていた。

幾十年、幾百年かがすぎ、そしてこの夜、角を折られた鬼の子は、ついに一万回目の月のひかりを浴びた。
鬼の子に宿った魂は、はっきりと目覚めた。そして鬼童は、初めて自分の魂と向き合った。ミミズクとも野ウサギとも、ほかのけものたちともちがう、自分を知った。
鬼童は、動けなかった。しかし、ずっとずっと以前からかわらずに、自分をつつんでいる月のひかりを感じることはできた。
触ることも見ることもでない月に向かって、鬼童はたずねた。
「おれは何者なんだ」
月は、何も答えなかった。

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